HASEGAWA LETTER 2022 年( No.40 )/ 2022.09

カオリ to ミライ

香りとアート ~なつかしい香りが開く記憶の扉、
アートが拓く未来の社会~

嵯峨美術短期大学准教授 / Perfume Art Project代表 
岩﨑陽子

人生100年時代といわれるようになったが、健康に長生きをすることを望む人が増えている。
香りはそのような高齢者に対して何ができるのか。
そして香りを使ったアートはどのような可能性をもつのか。
これまでの研究実践の歩みと、その中で形成された香りのアートに期待する点について解説したい。

  • 2022 年( No.40 )
  • カオリ to ミライ

高齢社会と香り

 長年、身体と芸術の関わりについてフランス哲学思想をベースに研究しており、その中でも特に嗅覚、匂い、アートをテーマに国際的な香りのアートの展覧会の企画、日仏学生交流、国内外での講演など多岐にわたる活動を展開してきた。最近は香りと記憶の結びつきに注目し、高齢者にとって「なつかしい匂い」を使った快適空間をアート・デザインの力で生み出す共同研究をフランス、イギリス、スウェーデンの研究者たちと行っている。
 内閣府が1996年から刊行している「高齢社会白書」では、我が国の総人口は2021年10月1日現在1億2,550万人となっており、65歳以上の人口は3,621万人で総人口 に占める割合(高齢化率)が28.9%と報告されている。将来を見据えた場合、2065年には38.4%に達して、国民の約2.6人に 1人が65歳以上の者となる社会が到来すると推計されている。
 このような状況下で2012年より現在に至るまで、私は高齢社会と香りをテーマに、香りを使った空間研究をアートの手法で実施してきた。アートの手法とは、作家の個人的な感情や体験を作品を通じて多くの人に伝えて共感を拡げるものであり、これを香りの使用によって行うのが「香りのアート」である。「この香りが認知症予防に効果がある」といった高齢者の身体への直接的効能を謳うものではなく、「香りのアート」が引き出す「感情」をもとにQOL(生活の質)を上げ、それによる身体への間接的な効果を期待するものである。「香りのアート」による間接的手法を採る理由は、香りの認知が主観性を含んで成り立っていることから、香り単体を嗅ぐことよりも、香りとアート体験を併せた方が情動に訴えやすいと思われるからである。その意味については後に詳述する。

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香りの思い出

 最初に実施した研究は「香りのユニバーサルデザイン」というテーマであった。嵯峨美術大学・嵯峨美術短期大学の両学生たちと共に高齢者施設に出向いて「記憶と匂い」に関する25名を対象とするヒアリング調査を行った。3時間にわたる香りの思い出を語る高齢者もおられ、それを学生が記録した。記録から抽出した香りの記憶を学生たちが作品化した。作品は、高齢者から提供された思い出の写真と匂い袋を共に飾るモビールや壁掛けなどで高齢者施設に展示した。

(上)高齢者からヒアリングを行っている学生たち (下)ヒアリングをもとに制作した作品を高齢者施設の居室に展示する学生と、それを見守る高齢者

 この研究は嵯峨美大のデザインや造形系の教員、学生たちと行った香りのアート研究の第一歩であった1)。多くの知見が得られた一方で、アートという単一領域のみで、特に医療や看護、介護が必要な高齢者を対象とする研究の難しさを感じ、より学際的な方向へと歩みを進める契機となった。

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なつかしい香りと層構造

 次に2016年から2019年には、「匂いによるなつかしい感情喚起の構造と快適空間の創造」というテーマで、今度は高齢者看護学や認知心理学を含む研究を新たにスタートさせた。特に高齢者の「なつかしさ」を重視し、匂いによって呼び覚まされる記憶や、なつかしい匂いそのものについてヒアリングし、高齢者施設や自宅での快適空間の創造と、その効果測定を実施した2)
 ヒアリングを通じて興味深い点が二点あった。第一に「あなたにとってなつかしい香りは何ですか」という問いかけをすると、50人いれば50通りに近いバリエーションが出るということであった。回答となった香りの名称のみならず、それを嗅いだ時の状況や時代もさまざまで、年齢が近かったり性別が同じであったりしても、香りの記憶は非常に個別的なものであることがうかがえた。これが「なつかしい映画や俳優」といった視覚情報や、「なつかしい歌謡曲」といった聴覚情報を問えば、ある程度のランキングは可能になるかもしれない。しかし「なつかしい香り」に顕著な差のつくランキングは難しいことが判明した。
 第二の興味深い点は、なつかしい香りを単体の言葉で「もちの匂い」などと回答する人が多い一方で、「小学校~中学校の頃、朝早く草刈りに出かけて家に帰ってきた時に、服についた草の露や母の汗の匂い」というように、情景の中での早朝、草、汗といった層構造のように重なる匂いに言及する人がいたことであった。これは香りの記憶が情景の中に埋め込まれたものであることを示唆している。上記の「もちの匂い」と答えた人についても、実は詳しく聞けば「冬の寒い朝、母が作ってくれた時の匂い。今は自分で作る。作るとその時を思い出す」と回答しており、冷たい朝の空気を背景に湯気を上げるもちの匂いを想起していることが推察される。こうしたことから、香りは単体で意味をなすのではなく、季節や時刻といった環境やその時の状況、共に過ごした人や生き物との関係性の中でとらえられている。それが環境的匂いとスポット的匂いとして折り重なる層構造をなし、なつかしい記憶として刻まれていると考えられる(下図)。

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嗅覚と主観性

 ヒアリング調査やその分析から、主観的な香りのあり方や層構造としての体験とその記憶が導き出された。最新の嗅覚に関する生理学や神経科学、また認知心理学の研究に、図らずもこうした私たちの実践研究を裏づけているかのような成果が多く見られる。インディアナ大学(アメリカ)の認知科学者であるA.S.バーウィッチは認知科学や神経科学の視点から、匂い知覚を分子構造との関係性が非線形であり、匂い分子の物理的刺激に知覚のすべてを還元できないことを主張する。つまり嗅覚は自分の外の情報を得るのと同時に、この情報にどのような価値があるのかを心の中で判断する主観的側面が大きい。香りは単独で嗅がれているのではなく、過去を引きずりながら未来を見据え、空間内での意味づけを行いながら感じとられている。
 こうした理論は他にも見られ、心理学者と神経生物学者の共著『「においオブジェクト」を学ぶ』では刺激の物理化学特性にのみ還元されない、「学習」や「クロスモーダル」なあり方をする嗅覚について行動科学の視点から述べられている。神経科学者かつ哲学者でもあり、ついにはニューヨークに嗅覚アートのギャラリーを開くに至った異色の研究者Andreas Kellerや、香りとアートを主題とするイリノイ大学(アメリカ)の哲学・美学の教授のLarry Shinerの著作にも、神経科学の知見を援用した同様の記述が見られる。
 このように嗅覚とは、同じ匂いを嗅いでも人によって感じ方が異なり、さまざまなバリエーションの記憶に分かれ、時空の層構造の中で展開される感覚とされる。

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嗅覚訓練ゲーム

 2019年からは高齢者のための嗅覚訓練デジタルゲームの開発を始めた3,4)。この研究は先の高齢者と香りの研究メンバーに認知症専門医、スウェーデンのストックホルム大学の認知心理学者とマルメ大学のデバイス開発デザイナーを加えた国際共同研究である。認知機能と嗅覚機能の相関性に関する研究成果は近年かなり増えている。嗅覚は訓練による機能向上が期待されることから、嗅覚訓練を実施することでの認知機能の保持または向上を促進するという目的をもつ。
 なぜアナログではなくデジタルゲームで高齢者の嗅覚訓練をするのかという疑問に関しては、いくつかの理由がある。第一に現在は高齢者にとってデジタル機器は馴染みのないものかもしれないが、近い将来にスマホやパソコンの普及率や使用率は今よりも高くなり、誰もが所持する共通ツールとして機能することが予測される。第二にデジタルにより評価やその蓄積、他者との比較が自動で可能になり、ゲームによる訓練の成果を容易に把握できるという利点がある。第三にデジタルが今後ますますコミュニケーションツールとして重要視され、外出が困難になった高齢者でもデジタルゲームを通じて他者と交流することが可能になる。またデジタルゲームを介した交流が嗅覚訓練のモチベーションアップを促すことも期待できる。
 現在の技術ではまだパソコンやスマホ本体から匂いを自在に出力することは難しいが、パソコンにUSB端子で接続する匂い識別デバイスをスウェーデンの研究者たちが開発した。EXERSCENT*と呼ばれるこの機器は、調香師やワインソムリエの嗅覚訓練、子どもの食育を目的に開発されたものである。現段階ではゲームのインターフェースと香り**を詰め合わせたBOXからなるプロトタイプ第一弾ができたところであるが、今後はEXERSCENTとつなぎ、高齢者の認知機能への影響を評価することを目指している。

EXERSCENTを使って匂い当てクイズをしている女性

*EXERSCENT:この機器はオープンソースであり、誰でも利用が可能で設計図を手に入れることもできる。
(OSF | Exerscent Blueprint_rev4.pdf)
**香り:嗅覚訓練デジタルゲームに使用するなつかしい記憶に関わる香料サンプルは、長谷川香料株式会社より提供。

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アートの役割と未来の香り

 冒頭で「香り単体を嗅ぐことよりも、香りとアート体験を併せた方が情動に訴えやすい」とした理由を最後に述べたい。
 リンゴの絵があると、それをバナナの絵と間違える人は少ない。しかしリンゴの匂いを時としてバナナの匂いと間違えることは往々にしてある。ましてやリンゴの熟す寒冷な澄んだ空気と雪の香りが漂う空間に、南国のバナナの匂いを重ねたらどうだろうか。匂いは単体でも、異なるコンテクストのうちでも機能しにくい。
 香りが、記憶と結びついて人の心の奥深くの感情を呼び覚ますのは、時間と空間の中に切り離しがたくある人間存在を、他のどの感覚よりも鮮明に浮き彫りにするからである。層構造をもつコンテクストと切り離しがたく存在するこの感覚を表現するのは、アートの力に期待される領域であろう。ましてや、非常に主観的で個人的な記憶と結びつく感覚であるからこそ、アートの「非常に個別的な経験を、表現を通じて多くの人の共感へと拡げる手法」が役立つと考えられる。
 現在、アートのメディウム(材料)としての香りは、まだまだ自在な表現をするには不自由な素材と言わざるを得ない。原色の絵の具から目的をもって混ぜ合わせイメージ通りの色を出すように匂いを生み出すことはできない。背景に色を塗るように遠近法的に重ねた匂いの使用も難しい。録画や録音のようには簡単に「録匂」、再生することも困難だ。しかしこれらが可能になった香りの未来が描くアートの世界、そしてそれを享受する私たちの世界は素晴らしく豊かなものになるにちがいない。

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参考文献・資料

[文献]

  • 1)
    岩﨑陽子.味と匂い研究会2013年度活動報告.京都嵯峨芸術大学紀要第39号.2014, p. 15-23.
  • 2) 杉原百合子,岩﨑陽子他.なつかしい「匂い」を用いたアートによる感情変化および記憶想起の検討.AROMA RESEARCH 74. 2018, vol. 19, no. 2, p. 155-161.
  • 3) 杉原百合子,岩﨑陽子,真板昭夫.“なつかしい匂い”と創造活動による認知症の人の安心できる居場所作りとその効果検証.地域ケアリング.2018, vol. 20, no. 6, p. 44-48.
  • 4) 杉原百合子,岩﨑陽子.日本とスウェーデンにおける認知症予防のための嗅覚訓練ゲームの共同開発.AROMA RESEARCH 81. 2020, vol. 21, no. 2, p. 140-141.

[資料]

  • 香りのアート研究に関するウェブサイト(https://olfactoryresearch.net/
  • ドナルドA.ウィルソン,リチャードJ.スティーブンソン,鈴木まや他監訳.「においオブジェクト」を学ぶ.フレグランスジャーナル社,2012.
  • Keller, Andreas. Philosophy of Olfactory Perception. Palgrave Macmillan, 2016.
  • Shiner, Larry. Art Scents : Exploring the Aesthetics of Smell and Olfactory Art. Oxford University Press, 2020.
  • A.S.バーウィッチ,大田直子訳.においが心を動かす.河出書房新社,2021.

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