HASEGAWA LETTER 2026年( No.44 )/ 2026.03
社会の中の香り
香りがひらく、
コーヒーの新世界
~識者が語る魅惑のアロマ~
コーヒー好きの間でバイブルと呼ばれている本があります。コーヒー豆の生産から抽出に至るまでの成分変化を科学的に解説した『コーヒーの科学』と、人類がコーヒーと出会ってから今日に至るまでをひもといた『珈琲の世界史』です。前者は自然科学的、後者は人文科学的なアプローチですが、どちらも滋賀医科大学の旦部幸博准教授の著作です。旦部先生のコーヒーに対する幅広い知識と情熱にあふれた内容に驚かされます。このたび旦部先生を当社総合研究所にお招きし、コーヒーへの愛情や香りの魅力について楽しい対談をさせていただきました。
コーヒーとの出会いと思い出
櫻井 旦部先生は、微生物や遺伝子の研究がご専門ですが、コーヒーに関する研究も長年行われていてコーヒー通の間では広く知られています 。今日はいろいろとお話を伺いたいと思いますので、よろしくお願いします。まず、先生が最初にコーヒーの魅力を感じたのはいつ頃のことだったのでしょうか?
旦部 コーヒーとの出会いは、子どもの頃にさかのぼります。わが家は母親も仕事をしていましたので、祖母が毎朝ご飯の支度をしてくれました。トーストと一緒に、インスタントコーヒーに砂糖と牛乳を入れた子どもでも飲みやすいコーヒー牛乳をつくってくれました。今風でいうとカフェオレですね。別に凝ってつくっているわけじゃないのにおいしい。不思議なもので、つくるところを見て何度かまねしたのですが、同じ味にならない。何かあるのでしょうね。その後、高校、大学ぐらいの頃には「自分はコーヒー好きなんだ」と自覚するようになりました。
大学に入学して京都で下宿生活を始めたのですが、誕生日を初めて独りで迎えた時に何か趣味をつくろうと思い、ふっと浮かんだのがコーヒーでした。時代的には喫茶店ブーム(1980年代)がもう過ぎかけの時期で、コーヒーが趣味という人は一般的ではありませんでしたね。
それで思い立って、とりあえず近所のお店で、ドリップの器具とコーヒー豆を買って自分で淹(い)れてみましたが、何か違う。それで本を1冊買っていろいろと試したり、小さいサイフォンを買って試したりして、コーヒーとの付き合いが始まったという感じですね。

櫻井 その後、コーヒーの魅力に夢中になったタイミング、きっかけはありましたか?
旦部 大学4回生の時ですね。研究室に配属されて、お昼にみんなの分のコーヒーを順番に淹れるコーヒー当番をやることになったのがきっかけです。僕はコーヒー好きだから、その後大学院に進学しても、後輩に任せずに自分の仕事にしてしまいました。
一度留学生に、「これは俺のワークだ」って言ったら、先生から「それはワークじゃない。それを一生の仕事にするつもりか」みたいなことを突っ込まれましたが、今では本当にワークになっちゃいましたね。
櫻井 旦部先生が淹れたコーヒーの味、皆さんの評判はいかがでしたか?
旦部 わりと良かったですよ。コーヒー代は皆から徴収するのですけども、研究室にコーヒー好きの先生がおられて多めに出資してくれたので、それをいいことに近くの面白そうなお店で、ちょっと高くていい豆を買ったりしていました。理解者は大事ですよね。
櫻井 そのときは、豆はお店で挽(ひ)いて?それともご自分で挽いていたのですか?
旦部 最初の頃は手動のミルで、その後は電動のミルでまとめて挽いていました。淹れるのはドリップでペーパーフィルターが一番多かったのですが、ときどきはネルフィルターを持参して淹れていました。
当時はまだ生豆(なままめ)が買えるところは希少でしたが、入手できるようになってからは、実験室の片隅のコンロで手網焙煎もしていました。焙煎していると小豆洗いみたいにシャカシャカ変な音がして、そのうち焦げたにおいがするので、火事かと人が見にきたこともありました。そういう怪しげなことは今では許されませんよね。
櫻井 大学院を修了されてからは、おひとりで楽しむ機会が多かったのですか?
旦部 1996年に滋賀医科大学に助手として勤務するようになってからは、自宅で自家焙煎をするほど結構没頭した状態でしたね。その頃、インターネットでホームページが出だした時期で、最初は研究室のホームページのおまけコーナーみたいなスペースで、自分なりに積み上げてきたコーヒーの経験値やノウハウの公開を始めました。すぐにそっちが大きくなったので民間のプロバイダーに移しましたが、それが現在も続けている「百珈苑」というホームページにつながっています。この「百珈苑」を媒介に同好の士から連絡が来たり、相互リンクしたり、喫茶関係を扱うメーリングリストにも参加して、情報をやり取りするようになって、ますます知識や人脈が広がっていった感じですね。

植物由来の化学物質がつなぐコーヒーの研究
大橋 私もコーヒーとの出会いは旦部先生と同じで、子どもの頃飲んだコーヒー牛乳ですが、学生の頃はコーヒーを自分で淹れて飲むことはありませんでした。当社に入って初めに配属されたのが、コーヒーやお茶などの植物抽出物の開発部署で、コーヒーを飲む機会が増え、産地や焙煎度、淹れ方などによって風味が大きく異なることに気付きました。そして、家でも自分で豆を挽いて、淹れ方や豆の種類をいろいろと試すようにもなりました。その後、香りの分析をする部署に異動して、コーヒーの風味の違いが、どのような香り成分によるものかということに興味が湧きました。
旦部 そうですか。今、僕のやっている研究は、実はコーヒーとはまったく関係ない病気に関係するウイルスや細菌、がんがメインテーマですけれども、大学院の時に在籍していたのが漢方薬の研究をしているラボでした。そこの先生が注目していたのが、漢方薬に含まれている揮発成分の活性です。水蒸気蒸留で漢方薬の精油を取り出して、共同研究していた新潟大学で分析してもらい成分特定した後に、それぞれの成分活性を調べるという研究をしていました。大学院時代にそういう植物科学的、天然物化学的な実験をやっていたのがベースにはあります。この間もがん細胞に作用する中国の生薬由来の成分を研究していました。香りとはあまり関係ないですが、天然の植物由来の化学物質とは、いつもどこかでつながっている感じがありますね。コーヒーを抽出するときも、漢方薬の成分を抽出していた頃のように、どうしても成分内容に関心が向いてしまいます。それがコーヒーを見るときのスタンスの基礎になっていますね。
川口 私は普段、コーヒーの香料開発を担当していますが、先生はコーヒーを抽出するときにどういう成分が出そうかなと、イメージされているのですか?
旦部 なんとなくこうなっているんじゃないかなというイメージは一応あって、それがぴったりはまると、なぜか思いどおりの味になる。毎回そうじゃないのが未熟なところですけどね。
川口 私は、定番の中煎りのグアテマラの豆が好きで、クロロゲン酸ラクトンとカテコール系の入り混ざった複雑な風味が好きなのかなと思っています。
旦部 僕も一番飽きずに飲める味は、いわゆる中煎りと深煎りの間ぐらいのジャーマンローストといわれているあたりで、一番コーヒーらしい味かなと思います。ただ、飲んでいて飽きないと言いつつ、ほかのものを飲みたくなって、たまにはもっと深煎りのとか、今日はちょっと浅い気分かな、みたいな感じで、やっぱり選べる文化があってほしいですよね。

コーヒーの楽しみ方
川口 コーヒーの楽しみ方として、こだわりや好みの品種などはありますか?
旦部 こだわっているコーヒーや淹れ方についてよく聞かれるのですが、いろいろと飲んでいるうちに何でもよくなってきます。ちょっと高級店に行っておいしいコーヒーを飲むというのも好きですけれども、自分で生豆から焙煎して淹れるとときどきちょっと失敗したな、豆に気の毒なことをしたなということもあります。しかし、まずいコーヒーも、なんというか、ちょっと嫌いになれないというか、何かいとおしさみたいなのを感じるんですよね。
皆さんは僕が良いコーヒーを飲んでいるというイメージがあるようですけど、いわゆるコモディティ(大量生産される商品)の缶コーヒーやインスタントコーヒーも普通においしく飲みます。缶コーヒーは、これ百数十円で飲めていいのかなとか思いながら飲んでいますよ。
川口 缶コーヒーはドリップコーヒーとはまったく違うと思うのですが、缶コーヒーについて、どのようなお考えでしょうか。
旦部 香料会社の皆さんには申し訳ないのですが、缶コーヒーは無香料を選択することが多いですね。でも香料入りでも自販機とかコンビニで新製品を見かけたらとりあえず買います。形態では缶タイプが一番多いかな。PETタイプは容量が多くて、飲みきれないときもあるので。缶コーヒーは、ある意味日本独自の文化だと思っています。PETタイプもそこから派生してきた次の世代だと思います。だから「きちんと飲まないといけない」と意識しています。
缶コーヒーやインスタントコーヒーが、これだけ裾野を広げていなかったら、そもそもコーヒーが産業として成り立たない。そうすると喫茶店も当然ながら成り立たないと思います。コーヒーは、もともと苦いものなので、まずは飲んで慣れてもらわないと好きになれない、シェアが広がらない。そのためにも裾野を広げるということが重要だと思います。缶コーヒーなどの一般向けの商品は、コーヒー文化にとって本当に大事なものだと思っています。
コーヒーは人生そのもの
多様な価値観
川口 最近、若い世代がコーヒーを飲まなくなっているのは、苦味への抵抗が強いからではないかといわれています。若者にコーヒーの苦味に慣れてもらうには、やはり飲みやすい苦味の飲料を目指した方がいいのでしょうか。
旦部 苦味は、みんな最初は基本的に苦手です。1970年代、80年代のコーヒーブームの時、抽出は深煎りネルドリップが本格志向みたいな風潮がありました。特に当時一流といわれていたのが、深煎りをネルドリップで淹れたブラックコーヒーを提供する店で、それを飲むのが格好いいという価値観が醸成されていたと思います。それで苦味に嗜好がシフトしていったのだろうと考えます。
現代では、当時に比べると、飲んでいるうちに苦いのに慣れるというのはそれほどでもないようです。特にアメリカのスペシャルティは、あまり苦味を志向していないところがあります。僕らが飲むとちょっと酸っぱく感じるようなコーヒーを、若い世代はわりと平気で飲んでいたりしています。コーヒーというのは本当に幅があるし、焙煎度だけでもずいぶん味が変わってくるものです。それぞれに特徴というか持ち味があって、結局慣れの問題だと思います。その人がそれまで飲んできたコーヒーの味によって、その人の好みというのが形づくられていく、一つの価値観だと思います。
ちょっと大げさな言い方をすると、コーヒーはその人の人生ですね。お父さんお母さんが飲んでいた、おばあちゃんに淹れてもらった、そういう味があって、それで好みがつくられる。特に苦味は嫌な味ではあるので学習の影響が大きいのです。他人のコーヒーの好みに対してうんぬん言うというのは、その人の人生に口だししているくらいに思うんですね。だからこそ楽しみ方はバリエーションがあっていいし、コーヒーの世界には多様性をずっと持ち続けておいてほしい。その中でそういう価値観を支えるためのベースとして、皆が飲むコーヒーというコモディティは土台として重要だと思っています。
川口 バリエーションがあっても、コーヒーという共通の部分でつながっていく。コーヒー飲料に対する可能性を感じました。


コーヒーへのこだわり、名店の味
櫻井 自分でコーヒーを焙煎したり淹れたりするようになると、自分のコーヒーは店よりうまいぞと思う人もいるかもしれませんが、先生はいかがですか?
旦部 わかります。僕も自分で淹れた方がうまいと思うことはありますね。僕が古くから懇意にしている喫茶店で最初に飲んだとき、「あれ、こんなもんなのかな」と思ったこともありました。ただ、しばらく付き合っていると、いつ行っても、淹れる人が違っても同じ味になっています。その味を常に出し続けられるというのがすごいということに気付きました。コーヒーの名店といわれるところでも味が変わることは実際ありますが、その店はいつでも同じ味を提供することを重視しているのですね。喫茶店ブームの当時、ネルドリップが全盛だった時代に品質がばらつきにくいペーパードリップにこだわっていたそうです。グレードの高いコーヒーを提供し続けていけるというシステムになっている。そこに気付いたときに、ああ、これはかなわないなと思いました。
櫻井 原料の仕入れから加工、提供方法というところまで、全部システム化されているのですね。豆の産地とその水分含量によって、焙煎の熱履歴などもコントロールしていると聞きます。
旦部 ブレンドに使う豆は、毎年そのときに安定して入手できるものを中心にして、味の方が変わらないように配合を変えたりもするそうです。そうやっていつも変わらない味で提供できる配合をハウスブレンドにしているわけですね。喫茶店を始めた人が、エチオピアやイエメンのモカの味が気に入ったので店の味にしたのだけど、その豆が手に入らなくなってしまうという失敗談をときどき聞きます。仕入れから提供まで考えてシステム化されているお店は、ちょっと突き抜けている感じがあってすごいですよね。研究者としてはそういう名店の味を知りたいですし、今後も付き合っていきたいと思いました。そこで、僕にしかできないこと、例えば情報提供できるようになるべきだ、と気が付きました。それからは定期的にコーヒーの文献はチェックするようにしています。地味だけれども、いろいろな文献を読むことで科学的な理論を深めていったことが、コーヒーに関する本を書くことにもつながっていると思います。


モカコーヒーの香り
新たな香気成分
大橋 HASEGAWA LETTER 2025年(No.43)に、モカコーヒーの特徴香成分を解明して、香料でモカコーヒーの香りを再現する研究について執筆し掲載しました。(参考:モカコーヒーの香り~新たな特徴香成分の発見~)
旦部 大橋さんの記事を読みました。非常によくまとまっていて研究成果もすばらしいと思いました。
大橋 ありがとうございます。今回の研究では「フルーティーな香り」に注目したところ、ethyl 3-methylpentanoate(以下、E3MP)というごく微量な香り成分をコーヒーから初めて検出しました。さらに、それがモカコーヒーのフルーティーな特徴に寄与しているということが確認されました。本日は、旦部先生にそのE3MPの効果をぜひ体験していただければと思い、賦香品をご用意しています。



①:ドリップコーヒー(ブラジル産最高等級豆・ミディアムロースト)
②:① + E2MB + E3MB + E3MP
③:① + E2MB + E3MB
大橋 ご用意したのは3種類のコーヒーです。①はミディアムローストのブラジル産コーヒー豆をドリップして室温に冷ましたものです。②は、①にモカコーヒーから検出された3つのフルーティーな香り成分、ethyl 2-methylbutanoate(以下、E2MB)、ethyl 3-methylbutanoate(以下、E3MB)、E3MPを加えたものです。③は、②からE3MPを除いた比較品です。E2MBとE3MBは、コーヒーに含まれる既知の「フルーティー」な香り成分であり、先生の著作の中では、E3MB(日本語慣用名:イソ吉草酸エチル)はモカコーヒーの香りによく似ていると書かれていましたが、われわれが発見したE3MPと比較していかがでしょうか?
E2MB、E3MB、E3MPの添加量は、定量分析の結果を基に調整しています。
櫻井 ブラジルの豆がエチオピアになるかご確認ください。


旦部 ああ~香りだけでもずいぶん違いますね。これはすごいな。E3MPは従来の2成分(E2MB、E3MB)に比べて検出量はどれぐらいですか?
大橋 数十分の一から百分の一程度でかなり少ないです。
旦部 オルソネーザルでも違いは感じますけれども、飲んだときが明らかに違いますよね。ひと言で説明すると、フルーツ系の香りに近いですね。あえて言うならベリー系でちょっと熟したタイプの香り。ベリーの中でも具体的にどれかと言われるとちょっと難しいですね。ラズベリーでもないし、わりとクセのないタイプの、赤い果実がちょっと熟したときのようなイメージの香りですね。少し甘みがあって、ちょっと発酵しているような香りを感じます。飲んだときのイメージは、それがさらに際立ってくる感じですね。
飲む前に香りを嗅いだ段階で②が③よりも明らかに強いのはわかりますが、口に含んだときのレトロネーザルで感じる香りが、オルソネーザルで感じる香りよりもかなり強い。③と②の飲む前の香りの強さが1対2だとすると、口に含んだときは1対5になるくらいに強度が強く、しかも口の中に残ってくる感じ、香りとして戻ってくるイメージですね。
大橋 エチオピアのナチュラル精製のコーヒー、モカの感じは出ているでしょうか?
旦部 最近はエチオピアのコーヒーは浅煎りで出している店が多いのですが、エチオピアのシダモなどは昔から深煎りのファンも多いです。シダモは深煎りでもフルーティーな香りがニュアンスとして残ります。②の3成分が添加されたコーヒーにはそれを思わせる香りがあります。深煎りのシダモで出てくるフルーティーさにとても近づいている印象を受けます。
今回の賦香品は、中煎りのコーヒーに添加していますけれども、深煎りでちょっとコクがあるタイプのウォッシュト精製の豆で淹れたコーヒーに添加して比べると、さらにシダモのモカっぽさというのが増すんじゃないかという印象を受けました。
エチオピアのイルガチェフェは浅煎りのファンが多いですが、③の2成分の添加量をもう少し多くしていくと、浅煎り系のイルガチェフェに近い感じにはなるのかなと思います。
すごく全体の香りが強まっているし、これを単独で飲んだときにブラジルとは普通言わない、どこかと言われたら、多分エチオピアと言うと思います。イエメンともちょっと違う、やっぱりエチオピアですよねと。しかも、すごく自然な感じに調和しているというのが良くて、これは失礼な言い方だけれども、香りを足しているとはわからない。元からこういう香りだと言われても納得してしまうような感じです。
③も調和が取れているので、不自然さはありません。②は香りが足してあるんだけれども「実際に飲んだことのある味」なんですね。特にこの香りの出方はモカコーヒーが冷めたときのにおいですよ。これはすごいな。E3MPの方がちょっと揮発しにくいのでレトロネーザルアロマとして残りやすいのかなという印象もあります。
川口 E3MPはE2MB、E3MBよりはちょっと遅れて発現し、シャープな立ちというよりもちょっと膨らんで発現する特徴があります。先にE2MB、E3MBを感じた後に時間差でE3MPが発現し、フルーティーノートが時間的にずれて感じられるため強く感じるかもしれません。
旦部 トップに出る成分が強すぎると、少しでも添加量を間違えると鼻につく感じになりそうです。そこがちょっと抑えめで、後の方がちょっと持続性があって長く膨らむというのが、わりとリアルに近いのかなという感じはしますね。
大橋 分析したエチオピアの豆は、ブラジルの豆に比べて多く含まれる香り成分がほかにもあって、そういった要素も合わせるともっとエチオピアのナチュラル精製の豆らしさが増すと思います。それでも、本日ご紹介した成分を入れるだけで、今お話しされたようにエチオピアの雰囲気が出るということで、E3MPはエチオピアナチュラルに重要な成分だと考えています。
川口 E2MB、E3MB、E3MPについては、それぞれの化合物のにおいも嗅げるようにご用意していますので、ぜひご確認ください。


旦部 E3MPは、単品で嗅ぐともっとフレッシュで、ちょっとフローラルな感じがあるようなイメージですね。
大橋 E3MPは、ワインやブランデー、ウイスキーなどの洋酒で熟成されたものやカカオなどからも検出されています。興味深いのがワインです。E3MPは製造されてからの年数の若いワインにはほとんどなくて、樽で何年か熟成させたものには閾値より多く含まれるという報告があります。その論文では、E3MPの素となる3-methylpentanoic acidが微生物の働きで生成して、それがエタノールと反応してE3MPに変化すると考察されています。私はコーヒーでも同様だと考えています。ナチュラル精製の豆を分析すると、エタノールがウォッシュト精製の豆よりも多く検出されますので、エタノールと酸が精製過程で時間をかけて反応することでE3MPなどのエチルエステルができるのではないでしょうか。
旦部 発酵が関わっているということはほぼ間違いないでしょう。
大橋 HASEGAWA LETTER onlineの記事にも書いたのですが、これまでの市販のコーヒー飲料で、E3MPのようなフルーティーな香りが強いものはないと思っています。先生としてはいかがですか?
旦部 まさにそうだと思いますね。酵母で発酵させた豆をブレンドした缶コーヒーには、この系統のいわゆる発酵系とかフルーティー系の発酵臭というのが明らかにありました。中米やイエメンのナチュラルとかに近いような感じのワイニーな香りが出ていました。今回のE3MPはワイニーよりはフルーティーというイメージが強い。そういう意味でいうと、E3MPは本当にいいシダモのナチュラルを飲んでいるときのクリーンなフルーティーさというのがあるので、やっぱり一番近いもので思いつくのはシダモの深煎りです。市販の商品にはないと思いますね。
大橋 最近は、コンビニコーヒーでもおいしいモカブレンドがあります。中には、E3MPのフルーティーな香りを少し感じるものもあるかなと思うのですが。
旦部 現在の商品では、飲むときに意識して探さないと気付かないですね。このE3MPが入っていると探すどころか向こうから来てくれる。でも、押し付けがましくはないですよね。ちゃんとモカのシダモだという感じの出方です。
モカコーヒーの香りと嗜好
(モカの歴史)
川口 日本人は昔からモカ好きだといわれています。理由をうまく説明できなくても、「モカブレンドが一番」と感じ、モカの香りに強く惹かれる人も少なくありません。なぜこんなにもモカが好きなのか、歴史的にも理由があるのではないかと思うのですが、先生のお考えはいかがですか?
旦部 モカ好きなのは日本だけではありません。どの時代でもモカは高評価です。ヨーロッパに最初に入ってきたコーヒーがモカでした。その後、オランダがインドネシアのジャワで、フランスがハイチやブルボン島で栽培を始めましたが、その時代も常に一番評価が高かったのはモカでした。モカは常にブランドとして成り立っています。
なかでもモカの地位を確立したのはウィーンで、カフェでコーヒーのおいしさを追求しだした最初の都市だと思います。ただし日本のような淹れ方や焙煎ではなく、アレンジを追求しています。ミルクひとつでも比率にこだわっていて、カプチーノは一番ミルクが少ない、もう少し増えて1対1になるとメランジェ、もっと増えて白っぽくなるとゴールトと、別の名前がついています。そのウィーンにおいても、やはりモカは別格です。モカを出すときだけ、ブラックで楽しめるように普通よりも小さな専用の豪華なカップでうやうやしく出されます。
モカは本当にどの時代のどの国でも基本的にはずっと特別視されてきました。日本では、一緒にマンデリンやブルーマウンテンなどの銘柄も入ってきましたので、相対的に高級感が少し薄れた感はありますが、歴史的に見ても、これほど特別視されているコーヒーというのはほぼないですね。「モカこそがコーヒーだ」みたいなね。


川口 モカが特別視されている魅力とはなんでしょうか?
旦部 モカのどこが特別なのかというと、発酵系の香りだと感じています。しかも今回はモカの中でもエチオピア産ですよね。モカはイエメンの出荷港の地名です。モカというネームバリューで高く売るために、わざわざエチオピアからイエメンまで運んでから出荷したともいわれています。実際にはモカの中でもキャラクターの差はあって、もうすでにイルガチェフェやシダモなどのキャラクターはある程度業界の中では確立されている。その観点から先ほど試飲させていただいたE3MP は非常に納得できるというか、これを飲んだときに「ああ、『モカ』だね」と思いました。
大橋 ありがとうございます。今回モカコーヒーを分析するに当たっていろいろと調べた際に、カフェモカはコーヒーにチョコレートを入れることでモカコーヒーの風味に近づけたのが起源としている資料がありました。しかし、カフェモカと称する製品を飲んでも、モカコーヒーらしさはあまり感じませんでした。
このたびの研究でモカコーヒーから検出されたE3MPという香気成分は、カカオにも含まれていることがわかりましたので、私なりに仮説を立ててみました。それは「カフェモカが誕生した頃は、カカオに今よりもっと発酵が進んだようなものがあって、普通のチョコレートにもE3MPのような成分が入っていて、そのチョコレートをコーヒーに入れることで、モカコーヒーのような風味になり、それでカフェモカといわれるようになった」というものです。いかがでしょうか?
旦部 とても鋭い指摘だと思います。カフェモカの前にモカジャバというコーヒーがありました。モカジャバは、モカの豆とインドネシアのジャバ(ジャワ島)の豆のブレンドです。モカの次に古い産地がジャバなので、世界最古のブレンドになります。モカの方が高価ですから安いジャバにモカの風味をつける、あるいはかさ増しの目的でつくられていたのがモカジャバという形になりました。
時代が経過すると、アメリカではモカジャバを一種の商品名みたいな形で販売するようになりました。その時代になるとジャバというのは基本的にウォッシュトです。モカの方は昔ながらのナチュラルです。それを混ぜることによってモカジャバという風味が生まれました。そこからモカジャバというのが、次第にカフェモカジャバといわれるようになり、なぜかモカの代わりにチョコレートを混ぜるという飲み方に徐々になって、いつの間にかモカっていうのがチョコレートの代名詞になってきています。
それには伏線もあって、ドイツやウィーンでおいしいコーヒーは、最後の飲み口がチョコレートのようだという言葉があるんですね。これはまさにモカの特性で、僕もチョコレートに近い味わいになるのはナチュラルの方だと思っています。
ナチュラルの特徴は発酵系の香りのほかに、糖の含量に違いが出てくる。ウォッシュトの場合は微生物が分解してしまうショ糖などの還元糖類がナチュラルの場合は残っているので、焙煎するとメイラード反応が起こりやすくなり、メイラード生成物が多くなる。ピラジン類やアルデヒド類、発酵系の味わいも強くなります。これらはチョコレートの重要な成分でもあります。
だからジャバに対してモカを合わせる、あるいはモカの代わりにチョコを足すというのがつながってくると思います。今回体験させていただいたE3MPに限らず、ナチュラル由来の香味というのはわりとチョコレートに近い。これはブラジル系のナチュラルでもおそらく同じで、ブラジルはナチュラルでも短期間に発酵させずに乾燥しています。そうするとフルーティーなフレーバーよりは、チョコレートのような香りに近くなっているので親和性が高いんだろうと思っています。
昔のアメリカではブラジルの豆が一番手に入りやすく安価だったので、モカの風味を出したくてチョコレートを足したのかもしれませんね。

世界のコーヒーのトレンドと
2050年問題
川口 最近のコーヒーのトレンドはありますか? 2004年に世界中で注目されたゲイシャのような次の流行を探そうという動きも見られます。その流れの中で、発酵プロセスを工夫した豆や、農園が新しい品種を導入・栽培して販売する取り組みも注目されていますが、いかがでしょうか?
旦部 どういうものが流行りになるか正直読み切れないところが多いです。僕はコーヒーというのは「コーヒーらしさ」というのが大事だと思っていて、それは飲んだときに、「これはコーヒーだ」とわかる、そういう典型的だけどおいしい味わいのものです。世界的に浅煎りの流行が強くなったとしても、フレーバーに注目していくと、リッチに口の中を満たすような、そういう膨らみのある味わいというようなアプローチは可能だと思います。目立つ派手なものではないけれど、そういうところに次の流行の種みたいなのがあるかもしれないと思っています。
2~3年ぐらい前からの産地での動きとしては、インフュージョンという生産段階で香りをつけるような動きがあります。それは仕方ない流れなのかとも思うのですが、素材をつくる工程で香りをつけられると正直なところ困ると思います。フレーバーを足したければ後で足す方がコントロールしやすい。しかし世間的にはインフュージョンが認められつつある。この流れが続くのかどうかが大変気になります。
それ以外の流れとしては、新しいものとしてはあまりないようです。ゲイシャなどの品種も出たし、あとナチュラルや発酵系ですね。発酵系はいろいろな製法を産地で試している感じです。玉石混交になってしまい、質の良くない豆も出ていたり、有名無実のよくわからない製法も混ざったりしていて、産地の方がちょっと混乱している感じがします。今後はきちんとした性質で適正な価格の扱いやすい豆を入手するには結構目利きが大切になってくると思います。
川口 地球温暖化による気候変動が進めば、2050 年にはコーヒー栽培に適した土地が大幅に減ることも近年予想されています。この状況についてどのようにお考えですか?
旦部 2050 年問題というのは言葉が独り歩きしてしまって、ちょっと困ったことだと思っています。2050 年というとみんな先のことだと思っていますよね。しかしすでに持続可能性の課題については困っているし、でも本当に持続不可能なのかといわれると、産地側としては危機感をあおって、高く売りたい、付加価値をつけたい、という思惑もあります。一方、消費者側からしたらいつまでも安くいいものが買いたいので、消費者の方に直接アピールされる言葉がバズワードになると、ちょっと焦点がずれると思います。
実際、大橋さんの記事には単純に生産量が減るということでなく、生産エリアが減ると、きちんと勉強されて正しく書かれていましたが、世間では供給量自体が減ると間違えている記事も多いです。それは産地の胸一つというところがあって、そもそも現在、コーヒーは生産調整がかかっているので、産地が本気になったら、どの国も今より生産量を増やせる形になっているはずです。近い将来での供給の不安定性については、気候変動だけでなく、ウクライナのような紛争が発生すると、それで価格や供給に影響が出ます。コーヒーにまつわる状況は前よりも厳しくなっているという印象はあります。
櫻井 個人で焙煎しているコーヒー店や喫茶店の経営は今あまりよくないのですか?
旦部 そう思いますね。そもそも原料価格が上がってきているので厳しい。急激に上がった感じがあるので厳しくなった印象はあります。


後世に残したい
日本のコーヒー文化
旦部 僕がコーヒーに興味を持ち始めたのは、喫茶店ブームが終わる頃でした。「流行のしっぽ」を追いかけてきたような感覚があるからこそ、その時代に人々がどんなコーヒーを飲んでいたのかが、最近とても気になっています。今なら、当時に近いスタイルのコーヒーをある程度再現して飲むこともできます。でも、たとえば戦前のコーヒーは実際どんな味だったのだろう、と考えることがあります。文献を追う限り、当時はブラジル豆を使っている店は少数で、基本はアジア産ロブスタがメインだったはずです。今の感覚でいうと、決しておいしいと感じるものではなかったかもしれません。それでも、多くの人がそれを飲んでいたわけです。同じように、ヨーロッパの19世紀にはどんなコーヒーが飲まれていたのかも、個人的に興味があります。だからこそ、手掛かりを一つでも多く残していくことは大事だと思っています。
櫻井 個人経営の喫茶店が日本のコーヒー文化を支えていた部分があると思いますが、時代の変化などを感じられることはありますか?
旦部 日本のコーヒー文化は、本当にほかの国に見られないような独自で、いわゆるガラパゴス化のような形で発展しました。でもその世代が、もうそろそろリタイアされる時代に来ています。私はそれをどうやって残していけるかとときどき考えます。淘汰されてなくなるのだったら仕方ないな、と思う反面、何らかの形で記録はできないかと思うことがあって。全部を完全に再現することはできないにしても、いろいろな名店のコーヒーで香りのパターンをとらせてもらって記録しておけば、後年誰かが再現してくれるかもしれない、そんなことを考えます。いくつもの視点からの記録を残して、今あるコーヒーというものを何らかの形で後世の人たちに伝えていきたいと思っています。そのためには、香り成分のスペクトルを残しておくとか、記録しておくとか、そういう活動があると個人的にはうれしいですね。
大橋 まだまだお話を伺いたいですが予定の時間が近づいてきました。世界で愛されているコーヒーの歴史、日本のコーヒー文化について貴重なお話をありがとうございました。旦部先生に、当社が新たに発見したE3MPがナチュラル精製のモカコーヒーの香りに寄与しているとご評価いただき、またコーヒーについて多くのお話を伺うことができたとても有意義な時間でした。おいしい缶コーヒーやPETコーヒーなどの開発がコーヒー愛好者の裾野を広げることや、これまで培われたコーヒーの味・香りを後世に伝承していくことの意義についてもお話しいただき、香料メーカーとして貢献できることが多くあると感じました。今後も香りのチカラを深掘りしていきます。
旦部 お願いします。皆さんのチカラに期待しています。


- 旦部 幸博 たんべ ゆきひろ
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京都大学大学院薬学研究科修士課程修了。博士課程在籍中の1996年に滋賀医科大学助手となり、2004年に博士(医学)を取得。2020年より同大学病理学講座微生物感染症学部門准教授(部門長兼任)。病原体や癌に関する研究・教育を本業とする傍ら、コーヒーに関する書誌文献を幅広く渉猟。科学的知見に基づく情報を書籍や講演を通じて発信している。コーヒー界隈での知名度が高まった結果、学内でも専門の感染症より先に「コーヒーの先生」として認知されることが増えたのが、最近のささやかな悩み。
【主な著書】
『コーヒーの科学 :「 おいしさ」はどこで生まれるのか』(講談社ブルーバックス)、『珈琲の世界史』(講談社現代新書)、『コーヒー おいしさの方程式』(NHK 出版)、『最小にして人類最大の宿敵 病原体の世界:歴史をも動かすミクロの攻防』旦部幸博/北川善紀(講談社ブルーバックス)
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